桜に思う
久しぶりに会社まで20分、歩いてみた。
もう桜は3分の1が葉桜となっているが、やはり桜はいい
そして、歩くって普段見えていないものも見えてくるから素敵なんだけど、それより考える時間としても最適なんだ
今日はそんな桜を見ながら、「教育」について考えながら歩いてきた。
今回の「567」の件と、今日本が行っている教育とはすごく深い関係にあると思っている。
567というより、その567報道、567情報の方向性についてという意味でだ。
今の教育は、日本の昔の教育方法と変わって、先生→生徒といった一方向の情報の伝達からほとんど成り立っており、先生の言っている事、その先生の言っていることの前提になっている教科書からのイッポウ方向の情報の伝達になっているという事だ
その情報が正解として、その情報を覚え、試験の時にその正解を書けば良い点が取れ、良い学校に進み、良い仕事につきやすく、良い生活とされるものを享受できるといった図式だ。
これが2日目のおでんの具のように体の芯までしみ込んでいる。
おでんならさぞ美味かろうが、ヒトのそれは弊害すらあると思う。
今回の567においても信頼できる??とされている(※日本人は特に)TVの報道や、国の機関からの情報、自治体の首長からの情報に関しては、教科書を丸暗記して好成績を取った「現代教育」の弊害が嫌というほど顕在化し、疑う事すらせずどこに向かっているのかさえ見えていない状態となってしまっている。
これは教師を責めているわけではない。
その教師すら、現代教育の過程を教師になるべく成績を取り、そこでは教師がどのように教育に携わらなければいけないのかを教育されてくるという現代教育を疑うことなく学習指導要領に則り教育のプロフェッショナルとして教壇に立っているのだ。
しかし、本来の教育とは知識を入れ込むことではなく、1つの現象に対して「アナタはどう感じ、どう考えるのか」を高めていくことではないかと私は考える。
所謂、「考える力」を身に着けさせることではないだろうか。
または、自分以外の考えや価値観に触れることで、自分の思考を深みを増していくことではないだろうか。
そんなことを考えながら久々の20分の散歩を楽しんでみた。